『両の腕のうちに孤独はない』
- annie

- 11月15日
- 読了時間: 3分

ya! 松屋のお味噌汁をちょっとこぼしてしまうことに定評のあるannieです。そのたびに悔しい思いをしている。
みなさん、一人〇〇ってどこまでいけますか。一人牛丼くらいはへっちゃらですかね。ぼくは一人ディズニーくらいまでいけます。というか、出かけるときに誰かと一緒に行くという選択肢があんまり出てこないタイプです。生粋の一人遊びマン。とならーみたいな感じでひとラーって言っちゃうと何か意味が違ってくる気がしたので飲み込みました。
なぜ、一人が好きなのか。それを探るためには、なぜ人は人と行動を共にするのかを考えたほうが早いような気がします。一緒に出掛けることの最大の目的って、瞬間的な感動の共有にあるとおもうんですよね。キレイとか美味しいとか、とりとめのない感想ほど鮮度が大事だから。あとからその感覚を味わってもらうことってけっこう難しい。時間空間の味を一緒に咀嚼して反芻することでしか感じられないうま味ってそこにあるよね。
じゃあ、一人遊びが好きな自分は共有を拒否しているのか、というと違う気がする。楽しかった思い出とか話すことだってあるしね。だから思うに、感覚の鈍化ではなくむしろ逆で、他人との境界線に鋭敏であるが故なのではないかと。過敏ともいう。鈍い鋭いっていうのはどちらが優れているとかではなく、どちらに向いているかという意味でね。
国内だけで一億を超える人間がいて、あらゆるところが誰かの生活圏という現代。たとえ一人ふらりと旅に出たとして、だいたい知らない人の世界の端と接するわけです。ぼくはそれで、けっこう十分ってことなんだと思う。個人的にはそれが感覚の共有の代わりになっているんだろうなぁ。孤独に対する閾値の違いがここに関わってくる気がする。つまり感覚的には、だれかと一緒に出掛けているのと変わんないよってこと。お味噌汁のふたを開けるのに失敗して少しお盆の上にこぼしてしまって、きぃ~ってなった時点で、この世の誰かとのきぃ~の共有は済んでるんですよね。
一人が好きって、寂しさとか冷たさの証左にはなり得ないよ。一人になってしまう人、ただ一人を愛せ。一人を愛する自分を愛していきましょう。グレンラガンみたいなこと言ってる。自分を隣人のように愛することができたなら、究極の個人主義はいっそ優しさや慈しみを含むんじゃなかろうか。この辺はぼくが人生をかけて実践していくのであんまり真似しないでね。人と一緒にいる強さのが尊いものではあるよそりゃあ。……ジェットコースターばりの急な方向転換。この辺が一人の所以なのかもしれない。遠心力の犠牲者を出さないようにしている。
最後にオススメの一人ディズニー攻略法を書きます。
まず夕方五時に入園し、パーク内のチュロスを買いまわります。海ならホットワインも買います。パレードを見ながらチュロスを食べたりします。そのあと散歩します。ゆっくりめのアトラクションに乗ります。お土産屋さんで服みます。気分によっては船系の乗り物にも乗っています。おしまい。
ただのチュロス大好き。
bye!
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